Jess Hornさんのこと④

その後も折に触れてJessさんとのやり取りは続きました。
ある時、Jessさんからのメールに「もし頼めるなら…例のナイフマガジンの記事の内容を訳してもらえないだろうか。何しろ日本語が全くわからないので」と書いてありました。
もちろんです!と私は答えました。
勢い込んで答えたものの、さて私の英語力は危ういものです。そこから脳に汗をかく翻訳作業がはじまりましたが、好きなことですので全く苦にはなりませんでした。
なんとか完成させ、本文や写真のキャプションすべてを訳したファイルを私はJessさんに送りました。Jessさんは「very well done! これ以上の訳はないと思うよ」ととても喜んでくれました。たとえお世辞でもそのことがうれしく、苦労など吹っ飛んでしまいました。
今後も色々教えてほしい、とメールには書かれていて、実際先に書いたように結構ストレートな質問もありました。
第三者も絡んだりするので内容は書きませんが、私もそうした質問には思うところをありのままに答えました。
そんなやりとりが定期的に続きました。

ある日Jessさんからのメールに「君の写真を送ってくれないか」と書かれていました。
え、写真?と思いましたが、過去にも別のアメリカの方から写真を頼まれたことがあり、そういうものなのかもしれません。
写真を送ると「君と家族の写真はコピーしてデスクの後ろに貼ってるよ」という返事が来ました。
メールの最後には「今後はファーストネームで呼び合おう、私のことはJessと呼んでくれ」とありました。

メールのやり取りの中にはJessさんの健康状態のことが時々書いてあり、私もそれは心配していました。
入院されていたり、お医者さんに自宅に訪ねてもらったりされていたようでした。
やがて少しづつ返信の来ないことがあり、あまり一方的に送ってもと思って控えたり、時々送ってみたりしていました。
随分長い期間音沙汰がないので、Jessさんから「彼は古いカスタマーで私のナイフのスペシャリストだから」と紹介してもらったJohn Hanlonさんにメールで聞いてみると「何か月か前に電話で少し話したけど…」という返事があったりもしました。
回復を祈っていました。
あっという間に更なる年月が過ぎました。

2016年の2月14日に、Jessさんはお住まいの近くのSacred Heart Medical Centerで亡くなりました。
心のどこかで何となく覚悟はしていたものの、ああ…と思いました。
Jessさんが亡くなってしまった。
私の中で一つの時代が終わった日になりました。

その後パソコンがクラッシュして、たまたまプリントアウトしていたものを除いてJessさんとのメールの多くは失われてしまいましたが、送っていただいたもの等は今も大切に取ってあります。
街がバレンタインの飾りつけでにぎわう季節になると、私はJessさんのことを思い出すのです。